「あのぅ、今いいですか?」 子どもの居場所づくりをめざした相談活動


 はじめに

 幼い子どもが転んだとき、母親はすぐには助けず、子どもが自分で立ち上がるのを待ちます。しかし、転んで大きな怪我をしたときには、すぐに駆け付けて手当てをします。
 学校も同じです。学校は、「生徒が自立して生きていくための基礎を作る所」です。だから、生徒は試行錯誤しながら「自分の道」を見つけるために学びます。あっちにぶつかったり、こっちで傷ついたりしながら、自分に合った人生を探し出していきます。
 しかし、なかには心に深く傷を負って学校に来ることができない生徒もいます。また、一人で苦しんで相談室を訪れる生徒もいます。そういう生徒にはすぐ手当てが必要になります。しかし、幼い子どもと違つて、心にどんなに深い傷を負つても、その傷は自分自身のものであり、自分で治さねばなりません。
 相談室では、生徒が心の傷を治すお手伝いをします。一人ひとりの生徒を大切にし、自立に向かわせるためには、学校も生徒に合わせて柔軟に対応しなければなりません。学校側のほんの少しの配慮で、登校できた生徒が何人かいます。
 たとえば、年度の途中だけれど、体育科の先生方に体育のグループを替えていただいたことで四十日以上欠席していた男子生徒が登校できるようになりました。また、不登校の生徒を、他の生徒の目につかないように、時間をずらして門までそっと出迎え、下足箱から相談室まで付き添うことで、最初の登校が可能になりました。
 登校をしぶり、家に閉じこもるしかない生徒たちが、一歩踏み出すきっかけは、こういう何げないやさしさを学校が示すことだと思います。
 相談室で、生徒に「私は、あなたの気持ちを全部はわからないかもしれない。でもわかろうとするから話してみて」と言うときもあります。「そう、苦しかったね。よく頑張ったね」といたわるときもあります。「そうかな、それでいいのかな」と感想を述べるときもあります。その時々の生徒の問題や様子によって、対応も異なります。
 生徒は、自分をわかってくれると思う先生にはリラックスして本心をうち明けます。しかし、生徒の上に立って命令したり、管理しようとする先生には、自分をガードして本心を表しません。そして、もっと悪いことには、叱られまいとしていろいろと気を回して卑屈になります。先生の指導も、生徒に通じなければ意味がありません。
 近ごろは、生徒や保護者の考え方と、教員の考え方のズレも大きくなって来ていると感じます。学校の先生は、時代や社会の流れをもっとよく知って、その流れの中に身を置いて考えることも必要だと思います。

 私は三十数年間、高校で国語の教員をして来ました。そのうち、二十年間は各高校の相談室に常駐しました。その年にもよりますが、週に十六・七時間の授業を持ち、その他にも放課後の補習授業や、部活の顧問をしながら、校務分掌として教育相談の仕事をしました。
 制度の上からは、生徒指導部内の教育相談係として仕事をしたこともありますし、教育相談部がある学校では、部長として生徒の問題と向き合ったこともあります。
 相談室で、生徒や保護者の方、担任の先生とお話しして、教えていただいたり、ハッと気がついたり、そうだったのかと納得したりして、学んだことはたくさんあります。
 そのような「相談室」での経験と、経験から学んだ私の考えを、少しお話ししさせていただきます。
                       田中 京子

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