子供とのかかわりに生かす カウンセリング・テキスト

 はじめに

 「物言わぬは腹ふくるるわざなり」といって、昔から言いたいことをがまんしているのは身体に悪いとされてきました。それは、もちろん心にも悪いことのようです。言いたいことも言えない、聴いてもらえないという思いは「心残り」や「しこり」となって心の中にたまっていき、いつしか身体や精神を病ませてしまう種となるかもしれません。
 昔話の中には、言いたいことを井戸に向かって大声で話して気を晴らすという場面が出てきます。相手が井戸でも、話せば少しはすっきりするのです。ましてや、人間に話せばもっとすっきりするはずです。
 ところが実際は、人に話してすっきりするということはそう多くはないのです。それは、相手が怒って言い返してくる、そのことをきっかけに人間関係がまずくなる、やっぱり本音を直接言うのはよくないと思う、などの経験をすることもあるからです。
 それではと、直接相手に言うのでなく第三者に話してみるとどうでしょう。あまり熱心に聴いてくれない、自分の話にすり替えてしまう、気持ちを理解してもらえない、などの体験もします。
 そして、多くの人は自分の話を熱心に最後まで聴いてくれる人を身近に持つことができないのです。
 かつて、人々が村や集落単位で共同生活に近い形で暮らしていた頃、若者を初めとしたいろいろな人の悩みや相談を、受けてくれる人がいたようです。それは、人生経験も豊富で若者の幼さや未熟さを受け入れることのできる老人であることが多かったと思います。訪ねてきた人の話を時間をかけてゆっくり聴くことで、相手に元気を与えていたのではないでしょうか。
 話すということには、「聴いてもらえた」という満足感や「すっきりした」という解放感があります。

 例えば、自分の上役の課長を「気にくわない」と思っている人がいるとしましょう。ある日、その課長から「自分には責任のないことで注意されて」非常に腹が立っているとします。一人で考えていると、怒りや不満や言葉にならないいらいらが心の中で渦巻きます。やる気もなくなるし、会社もおもしろくなくなっていくでしょう。酒でも飲むか、スポーツでもするか、何か気分転換でも図る必要があります。
 そこに、同じように課長を嫌っている同僚がいれば、話を聴いてもらうことができます。相手はもちろん一緒に怒ってくれるし、自分も課長に腹の立っていることを話してくれるでしょう。共に怒り、共に悪口を言い合って、一時的に憂さを晴らすことができます。そこに満足感や解放感もあります。
 しかし、問題そのものはそのまま残っています。課長への不信感や憎しみは強くなっているでしょうし、それはそのまま会社での生活に不満と不安の影を落としています。
 それでは、誰か他の人がその人に対して「自分のしたことを考えさせてみよう」とすればどうでしょう。「あなたには本当に責任がなかったのか?」「課長の立場になってみなさい」と、説教や説得を始めることになります。しかしその人は、そう言われることで、「自分が悪かった」と反省するより、「自分が攻められている」「理解されていない」と感じてしまい、かえって「私は悪くない」「悪いのは課長だ」という思いを強くするでしょう。必死にそれを訴えようとし、それがはねつけられるならば、心を閉ざしていくしかなくなるでしょう。それでも結局仕方なく「わかりました。これから気をつけます」と言ったとしても、わだかまりや不信は固いしこりとなって残り、やはりそのまま会社での生活に不満と不安の影を落としていきます。
 共に怒り、共に悪口を言い合って一緒に憂さ晴らしをするだけなら、満足感や解放感はあっても、課長への不満不信という問題自体の解決にはなりません。逆に、課長の立場に立った第三者から、一方的に説教されたり反省を求められたりするだけなら、かえって不満と反発心が増すばかりで、これも問題の解決にはほど遠いものです。
 「話す」ことで満足感や解放感を得るというだけではなく、自分を振り返り見つめ直し、やがてそれが自然に問題の解決へとつながっていくようになる、そういう「話す」を実現するためには、何が必要でしょうか。
 それは、「良い聴き手」に出会うことです。

 このサラリーマンが、「事情は何も知らないけれど気持ちは受け入れて聴いてくれる人」と出会えればどうでしょう。
 初めは、「自分に責任のないことで注意されて腹が立っている」という感情を伝えることになります。しかし、自分の気持ちを十分に理解してもらうためには、話のいきさつや課長とのやりとりを詳しく話さなければなりません。相手がうなづきながらじっくりと聴いてくれる様子であるなら、自分も落ち着いてきて、少しさかのぼってゆっくりと事情を語れるようになります。
 ここで、もし聴き手が、聴き手自身の経験や思い出を語り出したりすると、お互いにそれぞれの話の共通点を探したり話の筋道が次第にそれていったりして、あまり話の内容は深まっていきません。しかし、聴き手が自分の話の方に焦点をしぼりひたすら聴いてくれるのであれば、話はどんどん深まり進展していきます。
 「だいたい、初めて顔を見たときから課長は気にくわなかったんです」
 「どうして?」
 「何かわからないけど……虫が好かないっていうか」
 そうして話していく中で、自分の心の中での課長への感情や、今回の出来事との関係や意味が整理されていきます。その上で、聴き手がしっかり受け止めてくれていると感じられれば、自分のしたこと、言ったことを振り返る余裕も生まれてくるかもしれません。「自分に責任のないこと」と思っていたものが、違った見方もできることに気づくかもしれません。なぜ自分が最初から課長を気にくわなかったのか、そういう自分の態度が課長の目にはどう映っただろうか、そういうことが考えられるようになるかもしれません。
 もちろん、簡単にはわからないこと、変わらないこともたくさんあります。話す本人にも自分で気づいていない感情とか、わざと考えるのを避けていることとか、どうしても言葉にならない思いとかがあります。うまく話が進まないまま、混乱したままで終わることもあります。そういう時にも、その聴き手が「あせらずにまた話を聴かせてよ」と言ってくれれば、その人はまた話をしに来たくなるでしょう。そのように話し続けることでその人は、会社での自分の生活のより良い変化の糸口を見つけていくでしょう。
 「話す」ことで、知らず知らず自分を振り返り、考え、問題解決への答えを自分自身で探り出していくことになるのです。
 「人は必ず成長し、答えを自分で見つけていく」。それを知っている聴き手、それが、カウンセラーです。
 そして、本当に相手を動かし育てていく助けとなるのは、「説得する」ことではなく、「受け入れて聴く」こと。これが、カウンセリングの原点です。

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